東京禅センター 平成19年度第8回公開講座 NO.31

天台小止観 その4松竹 寛山

平成19年12月22日




皆さんこんにちは。今回で『天台小止観』は4回目になります。前回は、非常に難解な第六章の「止観を正しく修行する」というところでした。あくまでも実践的に体験したことを言葉で表しているわけで、やはり実感の伴った理解が重要であることがわかりました。『天台小止観』は、仏教の教えの基本である「三法印・四法印」すなわち「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」「一切皆苦」といったことを実感していることが前提です。
また、「禅は結果を求めないで、ただ坐る」ということを言われますが、これは「とらわれない」ことを表現した言葉ですね。いくら良い結果が得られても、「とらわれてしまう」「しがみついてしまう」「執着してしまう」と逆に悪いことに転じてしまうわけです。単純に「結果を求めてはいけない」と鵜呑みにしないで、実際に事に当たって微妙なところを工夫していくのが、今日の部分です。やはり、修行に対する「やる気」や「モチベーション」を高めるには、それなりの良い感覚や効果を確認できるということが大切であるとも言えるわけです。第7章では、様々な修行をした結果、どのようなことが起こってくるのかが説かれます。それでは、今日は、数息観を16種類に細分化したといわれる十六特勝の実習です。≪実習20分間≫ 

第7章「善根が発る相」・・・ 止観をはじめとする正しい行為(行法)をした結果として、善根(善い様相・善い結果)というものが現れてくる。それには、二種類ある。
(外善根発相)
一には、外の善根が発こる相なり。いわゆる布施、持戒、父母・尊長に孝順し、三宝に供養し、および読誦・聴学等の諸の善根が発こる相なり。これは、これ外の事なり。魔境とあい濫ず。いまは分別せず。
〔第一に、外面的に正しい行為をすることで、良い結果として善根が現れてくることである(外善根発相)。布施・持戒、父母や年長者を大切にすること、仏法僧の三宝に供養したり、読経、仏の教えを聞いて実践することなどによって善い結果が現れてくるのである。これらは、外面的な善根である。魔境と混同され、善か魔かの区別がつかなくなってしまう。いまは、これには言及しない。〕

魔境とは修行を妨げるものの事ですが、善いことも執着してしまうならば、かえって修行を妨げるものとなってしまうわけです。そうならないためには、「諸行無常」すなわち、すべては本質的に「空」であることを実感して、一切とらわれない行為を心がけることが前提となります。「とらわれないこと」とは、「無心」の状態の時に心の内側からフ〜ッと湧き出てくる気持からおこる行為や働きであって、これをしたからどうなるとか、見返りを求めたりする、自我的な気持に動かされた行為ではないということです。まずは、自分の行為する気持ちが心の底から出てきたのか、自我的な欲から出てきたのかをわかること、感じ取れること、判断できるかどうかがカギとなります。これは、「観」の働きですね。外から見てよい行為をしているかどうか。ではなく、あくまでも、個人の内面的な状態がかかわっており、魔境と混同されやすいことから、この章ではこの外善根発相の部分は説かれていません。

(内善根発相)
二には、内の善根が発こる相なり。いわゆる諸の禅の法門の善根が開発するなり。すなわち三意となす。一にまさしく善根が発こる相を明かし、二に真偽を弁別し、三に止観を用いて善根を長養することを明かす。
〔第二に、内面的に正しい行為をすることで、善い結果として善根が現れてくることである(内善根発相)。それを三種に分けて説明する。それは、@善い結果が現れてくる様相、Aその真偽を見分けること、B止観によって、その善根を養い育てることである。〕

以下、内善根発相について詳細に説かれています。 

≪内善根発相≫
(内面的に善い行為をすることで、善い結果が現れてくる様相)
いかなるをか内の善根が発る相と名づくるや。五種の善根ありて発る相は同じからず。一に息道の善根が発る相、二に不浄観の善根が発る相、三に慈心の善根が発る相、四に因縁を観ずる善根が発る相、五に念仏の善根が発る相なり。
〔どのようなことが、内面的な正しい行為をすることによって善い結果が現れてくる様相というのか。それには五種類の様相がある。@息道の善根、A不浄観の善根、B慈心の善根、C因縁を観ずる善根、D念仏の善根、の五つによって現れてくる様相である。〕

すなわち
@ 息道の善根・・・ 呼吸をコントロールすることで、現れてくる善根の様相
A 不浄観の善根・・・内外の不浄なものの様子を観察し、妄想執着の心を離れていく
ことで、現れてくる善根の様相
B 慈心の善根・・・ 慈悲の心を起こすことで、怒りや妄想執着から離ることで、
現れてくる善根の様相
C 因縁観の善根・・・一切の事象は因縁によって起こるという道理を観察し、愚痴や 
妄想執着から離れていくことで、現れてくる善根の様相
D 念仏の善根・・・ 諸仏の功徳を思い浮かべることで、現れてくる善根の様相

今回は、息道の善根を取り上げることにします。

(息道の善根によって現れてくる様相)  
一には、いかなるか息道の善根が発る相なりや。行者がよく止観を修するが故に、身心調適して妄想は起こらず、これに因っておのずからその心は漸漸に定に入り、欲界および未到地等の定を発こし、身心は泯然として空寂に、定心の安穏なるを覚ゆ。この定のなかにおいてすべて身心の相貌を見ざらん。
〔どのようになってくるのを、息道の善根が現れてくる様相というのか。修行者が呼吸に注意を向けて数息観などのなかに「止観」を行ずることで、身心がコントロールされ、妄想や執着は起こらないことが自覚されてくる。それによって、自然と徐々に禅定が深まっていき、やがては欲界における禅定(欲界・色界・無色界のうち、最初の欲界の禅定の段階)に入り、次に未到地の禅定(色界の初禅定に入る準備的な禅定)に入る。身心は空っぽになって空寂となり、禅定の心は落ちついて安定していることを自覚する、この、禅定に入っているときには、(対象とピタリとひとつになっているので)様々な身心の状態に気づいたり、感じたりすることはないだろう。〕
「三界」
欲界・・・三界の最も下にあり、淫欲と食欲の支配する世界・・(欲界定)
色界・・・淫欲と食欲を離れた物質・色からなっている清らかな世界・・(四禅定)
無色界・・・最上の世界。物質を離れた高度の精神的な世界

ここでは、「欲界(欲界定) ⇒ 未到地定 ⇒色界(四禅定) ⇒無色界」 という段階を経て禅定は深まっていくと書かれています。

「四禅定」・・・欲界の迷いを超えて、色界に生じる禅定を四段階に分けたもの
諸欲を離れることで得られる喜や楽の「初禅定」から、禅定から生じる喜と楽のある「第二禅定」、また、喜びをも離れ、正しい智慧と楽のある「第三禅定」、喜や憂を滅没させて、不苦不楽の境地である「第四禅定」と深化していくとされています。

後においてあるいは一座・二座、乃至一日・二日、一月・二月を経て、息を将うるに所を得て、退せず失せず。すなわち定のなかにおいて忽ちに身心が運動して、八触がしかも発ることを覚えん。八触とは、いわゆる身の動・痒・冷・煖・軽・重・渋・滑等を覚ゆるなり。触が発るときにあたって、身心は安定し、虚微悦予し、快楽にして清浄なること喩えをなすべからず。これを数息(観)の根本禅定の善根が発こる相となす。
〔この禅定を得た後は、一?や二?の坐禅をしても、一日や二日の坐禅をしても、一月や二月の坐禅をしても、数息観などのコツを会得することで、呼吸は乱れることがなくなる。また、その禅定に入ると、突然身心が動き出して八種類の感覚の起こるのを感じる。八触とは、身体の動き・痒み・冷たさ・暖かさ・軽さ・重さ・ざらざらした感じ・滑らかな感じなどの感じである。この、八触が起こるときには、身心は落ち着いて安定し、ごく微かではあるが喜びを感じ、心地よく清らかになることは喩えようがないほどである。これが、数息観などを修した結果、一切の禅定の根本となる善根の現れてくる様相である。〕

身体の感覚(八触)が感じられるようになった時、一方では必ず身心の安らぎや安定、それに対する喜びや気持の良さが感じられるということですね。もし、一方で、胸がドキドキしたり、ざわついている心の状態があるようならば、善根の相が発ったとはいえないわけです。

またつぎに行者が、あるいは欲界(定)・未統到地(定)のなかにおいて忽然として息の出入の長短、遍身の毛孔がみなことごとく虚疎なるを覚え、すなわち心眼をもって身内の三十六物を見ること、なお倉を開いて麻・麦・穀・豆等を見るがごとし。心は大いに驚喜し、寂静にして安快なり。これを随息(観)・(十六)特勝の根が発こる相となす。
〔またつぎに修行者が、欲界の禅定や未到地の禅定のなかで、突然、出入する息の長短の状態や全身の毛穴がみなことごとく開くような感じがして、人の身体を構成する三十六の不浄物のイメージが見えたりすることがある。これは、倉を開いて麻・麦・穀・豆などを見るようなものである。心は大いに驚き喜び、落ちついて安らかで心地良い。これを、呼吸の出入に随って心を落ち着けていく随息感や、種々の呼吸の方法を修する十六特勝を修した結果、善根の現れてくる様相である。〕

「十六特勝」・・・呼吸を数えて、心を統一していく数息観を細分化したもの十六の
特に勝れた観法を意味する。
(1)「念息短」心が粗くて呼吸が短い時に、そのままを感じながら短い呼吸をする
(2)「念息長」心が細かいと呼吸が長くなる。そのままを感じながら長い呼吸をする
(3)「念息遍身」呼吸が身体中に満ちるのを感じながら呼吸をする
(4)「除身行」息の出入に注意を向けることで、身体の動きを静めながら呼吸をする
(5)「覚喜」喜びを感じながら呼吸をする
(6)「覚楽」安楽を感じながら呼吸をする
(7)「覚心行」何かを貪る心の動きを感じながら呼吸をする
(8)「除心行」貪りの心を自覚することで、心を静めながら呼吸をする
(9)「覚心」貪心を除いた、静寂な心の状態を感じながら呼吸をする
(10)「令心喜」心を喜ばせながら呼吸をする
(11)「令心摂」心を静め安定させながら呼吸をする
(12)「令心解脱」開放された、静かな落ちついた心の状態を感じながら呼吸をする
(13)「無常行」無常を感じながら呼吸をする
(14)「断行」無常によって、自分の執着心が断じられるプロセスを感じながら、呼吸
をする
(15)「離行」無常によって、自分の執着心が離れていく様子(結果)を感じながら、呼吸をする
(16)「滅行」無常によって執着心が消えていき、すべてが空っぽになり、身心の安ら
ぎを感じながら呼吸をする

(真偽を見分けること)
真偽を分別するとは、すなわち二意あり。一には邪偽の法を明かし、二には真正の相を弁ぜん。
〔禅定のなかで、起こった現象が善い結果から現れてくる様相かどうかを見分けるには、二種類がある。第一に善くない様相を明らかにし、第二に正しい様相を説明する。〕

(邪偽の相)
いかなるをか邪偽の相と名づくるや。行者がもし、上のごとくに諸禅を発こすとき、随って発こすところの法に因って、あるいは身手が紛動し、あるときは身の重きこと物が鎮圧するがごとく、あるときは身が軽くして飛ばんと欲し、あるいは身が縛せられたるがごとく、あるときは逶?し垂塾し、あるときは前寒し、あるときは壮熱し、あるときは種種の諸の異なる境界を見、あるときはその心が闇蔽し、あるときは諸の悪覚を起こし、あるときは外の散乱なる善事を念じ、あるときは歓喜し操作し、あるときは憂愁し非思し、あるときは悪覚触して身毛みな驚竪し、あるときは太楽し?酔せん。かくのごとき等の種種の邪法が禅とともに発こるを、名づけて邪偽となす。

〔どのようなことを善くない様相とするのか。修行者がもし様々な行法を行ってその結果、身体や手があちらこちらと動いたり、あるいは、身体が重くて物に押しつぶされるように感じたり、身体が軽くてフワフワしたり、身体が縛られたように感じたり、フラフラして倒れそうになったり、ゾクゾクと寒気がしたり、熱っぽくなったり、色々な幻覚を見たり、心が暗くなったり、様々な悪い考えがおこったり、あれやこれやと世間の楽しいことを思い出したり、歓喜して振り回されたり、憂鬱になって悲しんだり、気持の悪い感じがして身の毛がよだったり、楽しく酔っ払ったようになったりする。このような様々な悪いことが、禅定中に起こってくるのが善くない様相である。〕

つまり、身心がどうも落ち着かなくて不安定な感覚が感じられるということです。ここでは、どこにも静かな感覚は無いわけです。

行者が止観を修するとき、もしかくのごとき等の禅を証せんに、この諸の邪偽の相あらば、まさにすなわちこれを却くべし。いかんがこれを却けんや。もし、虚誑なりと知りて、心を正しくして受けず著せざれば、すなわちまさに謝滅すべし。もし謝滅せざるも、まさに止観をもちいてこれを観破すべし。すなわちまさに謝滅すべし。
〔修行者が止観を修習するとき、もし禅定中にこのように善くない様相がみられるようならば、どうしてもこれを取り除かなければならない。どのようにしてこれを取り除けばよいのか。もし、善くない様相であると知って、心を正しくして受け付けず、執着しなければ消滅してしまうだろう。もし、消滅しなければ止観によってこれを観破すればよい。そうすれば、禅定中に起こった善くない様相は消滅してしまうだろう。〕

まずは、善くない様相であることを知って、執着しないことが大事で、もし執着してしまうようならば「止観」のどちらかの方法を使って執着から離れていくということですね。そうすれば、善くない様相は消滅していくのです。

(真正の相)
つぎに、正禅が発こる相を明かす。もし坐中において諸の禅が発こるとき、上に説くがごとき諸の邪法等あることなく、正禅が発こるときにしたがって、すなわち定と相応して空明清浄なるを覚え、内心喜悦し、澹然として快楽に、覆蓋あることなく、善心が開発し、信敬が増長し、智鑒は分明にして、身心は柔軟に、微妙虚寂にして世間を厭患し、無為無欲にして出入自在ならば、これを正禅が発こる相となす。
〔つぎに、禅定中に正しく現れる様相を明らかにする。もし、禅定中に欲界定に始まり未到地定そして、四禅定へと至るときには善くない様相が現れることは無い、しだいに禅定が深まっていくのに従って、徐々に心が空っぽでスカッとして清らかであることを自覚し、心のうちは喜びに満ち、安らかで心地良く、煩悩に覆われることもなく、善い心が溢れ、仏を信じ敬う心が大きくなり、智慧の働きがハッキリとし、身心は柔軟で静かに落ち着いて世間を厭い、なにものにもとらわれず、禅定に自由に出たり入ったりするならば、これを禅定の中で正しく現れる様相とする。〕

譬えば悪人と事を共にすればつねにあい触脳し、もし善人と事を共にすれば久久にしていよいよその美なるを見るがごとし。邪正の二種の禅が発こる相を分別することもまたかくのごとし。
〔たとえば、悪人と行動を共にするならば常に接して頭を悩ませる。もし、善人と行動を共にすれば、時が経つにつれていよいよその良さを見るようなものである。禅定中に起こる様相が、善い様相か悪い様相か見分けることも、この例と同じことである。〕

必ずどこかに心の落ち着きや安らぎがあって、またそれが育ってくることが大事であることがわかります。

(止観を用いて善根を長養すること)
第三に、つぎに止観を修して諸の善根を長養することを明かす。もし坐中において諸の善根が発こるときは、まさに止観の二法を用いて修して増進せしむべし。いかんが修して増進せしめん。もし止を用うるに宜しきときは、すなわち止をもってこれを修し、もし観を用うるに宜しきときは、すなわち観をもってこれを修するなり。
〔第三に、止観を修習してさまざまな善根を長養することを明らかにする。もし、坐禅中に色々な善根が起こるときは、止観の方法を用いてさらに善根を増進すればよい。さて、どのように修習して善根を増進させればよいのだろうか。それは、止を用いた方が良い時は、止によってこれを修習するし、観を用いた方が良い時は、観によって修習するのである。〕

善根を養い育てるにも、「止観」を用いること、すなわち、「集中・観察」の実践によって@息道の善根、A不浄観の善根、B慈心の善根、C因縁を観ずる善根、D念仏の善根、の五つを養い育てていくことが説かれているわけです。
臨済禅では、これらのことを公案を解くことによって体験し、見ていくわけですが、この「止観」を日常の中で工夫し実践することによって、さらに公案禅の良さが引き出されるであろうと考えています。
次回で最終回となります。ずいぶん理屈っぽくなってしまいました。東京禅センターは理論よりも、まず実践すること、体験することを中心に据えていきたいと思っています。来年から、「禅実践講座」が始まります。「止観」の実習も盛り込みながら実施していきますので、気楽にご参加ください。有難う御座いました

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