東京禅センター 平成19年度第7回公開講座 NO.30

天台小止観 その3松竹 寛山

平成19年11月17日




皆さんこんにちは。今回で『天台小止観』は3回目になります。前回は、「二十五方便」、すなわち止観を実習するに当たっての25の工夫の方法をお話いたしました。今回は第六章の「止観を正しく修行する」というところです。もう一度確認しておきますが、「止」は一つの物事に集中していくことで「禅定」を養い、「観」は物事をありのままに観察していくことで「智慧」の働きを開発するということでした。そして、「止」と「観」は仏道を修行するための車の両輪であるということでしたね。それでは、前回同様「止観」の実習をしましょう。≪実習20分間≫ 

第六章「正しい修行」・・・まず、止観の方法を見ていきます。止観には「坐禅中の止観(坐中止観)」と「縁にわたり境に対しての止観、すなわち日常生活の中の止観(歴縁対境止観)」とがあり、それぞれに対して、五つの修習法が提示されます。
          

≪止観の方法≫
(「止」の三種の方法)
「止」に三種あり。一に「繋縁守境の止」とは、いわゆる心を鼻隔・臍間等の処に繋いで、心をして散ぜざらしむるなり。故に『経』にいわく、「心を繋いで放逸ならしめず、また猿を鎖に著くるがごとくなれ」と。
〔「止」の方法には三種類がある。第一に「繋縁守境の止」とは、心を鼻の先や臍下の丹田に繋ぎとめて、心を乱さない方法である。これを『仏遺教経』は次のように説いている。「心を鼻の先や臍下の丹田に繋ぎとめて集中し、散乱させてはならない。この方法は猿を鎖で繋いでおくようなものである」と。〕
  
二に「制心の止」とは、いわゆる心の起るところに随って、すなわちこれを制して馳散せしめざるなり。故に『経』にいわく、「この五根は、心をその主となす。この故に汝等まさによく心を制すべし」と。
〔第二に「制心の止」とは、心が起こって動いてきたら、それがあちこちに散乱しないようにコントロールし、落ちつけていく方法である。これを『仏遺教経』は次のように説いている。「眼で見る・耳で聞く・鼻でかぐ・舌で味わう・身で感じるといった五感が働くのは、心にその主体があるから感じるのである。ゆえに、主体である心をコントロールして散乱させないようにしなければならない」と。〕

三に、「体真の止」とは、いわゆる心の所念に随って一切の諸法あり。ことごとく因縁より生じて自性あることなしと知れば、すなわち心に取らず、もし心に取らざればすなわち妄念の心は息む。故に名づけて止となす。『経』のなかに説けるがごとし。「一切諸法のなか、因縁は空にして主なし。心を息して本源に達す。故に号して沙門となす」と。
〔第三に「体真の止」とは、心の感じたり思ったりするところに随って一切のものが現象として表れている。それらすべては因縁によって生じているのであって実体があるのではないと知るならば、心の中にとらわれることは無くなる。もしとらわれることが無くなれば、妄念の心はなくなるのである。このことを「止」というのである。『太子瑞応本起経』には次のように説かれている。「存在する一切の事物は、因縁によって存在しているのであるから、固定的で不変な主体はない。とらわれる心を止めることで本源に達することができる。このような人のことを沙門(真の修行者)というのである」と。〕

この部分は臨済禅では、白隠禅師が作られた「鐘の音を止めてみよ」「対岸の喧嘩を止めてみよ」の公案などによって点検され体得していく部分ではありますが、やはり実際には、呼吸法や日常生活の中での止観の習慣的な実践があってはじめて深められる部分であるといえます。また、この部分は『天台小止観』では、経験によって自覚されることを理論的に解説しているため、非常にわかりにくくなっています。実際の「体真の止」の感覚は次の『般舟三昧経』の言葉に集約されています。

故に『経』にいわく、「心あって心を知らず、心は心を見ず。心に想を起さばすなわち癡なり、夢想はすなわち泥?なり」と。
〔であるから、『般舟三昧経』には次のように説かれている「心はあるが、心は心を知らない。心はあるが、心は心を見ない。心が心に対象を思い浮かべると迷いになる。心が心に対象を思い起こさない状態が涅槃寂静の境涯である」と。〕

まさに、対象と自分とがピタリとひとつになっている状態を表しています。それで、対象を実体化してとらわれてしまうことから離れることができるのです。しかし、ここのところは理屈では簡単に説明できても体得するには、習慣的に訓練することが不可欠になってきます。

(「観」の方法)
第二に、いかなるをか観を修すと名づくるや。「観」に二種あり。一に「対治の観」、二には「正観」なり。対治の観とは、不浄観は貪欲を対治し、慈心観は瞋恚を対治するごとし。かくのごとき等の観はみな「対治の観」と名づく。いまは分別せず。
〔どのようにするのを「観の修行」というのか。「観」には二種類ある。一つは「対治の観」であり、もう一つは「正観」である。「対治の観」には自他の肉体の不浄を観察することで、性欲やむさぼりの心を離れる「不浄観」があり、慈悲の心を持って怒りの心を離れる「慈心観」がある。このように反対の心やイメージを使うことによって迷いを断つ「観」はみな「対治の観」という。いまは、これ以上は説明しない。〕

「対治の観」は、現代的にいえばイメージによるコントロール法といえます。もちろん、対象によっては簡単に乗り越えられることもあるでしょう。単なる臭いものには蓋的なものなのか、五感による実感を伴ったものであるのか、あるいはもっと深い洞察によるものなのかといった、深浅は当然あるわけです。


二に、正観とは、すなわちこれ諸法実相を観ずる智慧なり。『経』の中に具に説けるがごとし。「諸法は牢固ならず、常に念に立在す。すでに空を解見せば、一切の想念なし」
〔第二に「正観」とはすべてのものをありのままに観察し見ていく智慧の働きである。これについて『般舟三昧経』には次のように詳しく説かれている「あらゆる一切のものは、固定化されたものではなく無常であり、瞬間、瞬間に心が造り出したものである。すべてが空であることがわかったならば、一切のとらわれの心は起こらないのである」〕

『天台小止観』では、具体的な方法は説かれていません。この後で解説する、部分で「観」を正しく修習した際の諸法に対する正しい見方がズラズラと提示されています。上座部系のビパサナ瞑想では、最初の段階として歩く瞑想、食べる瞑想などといった身体や呼吸による訓練法が実践されて、深い洞察へ導くシステムが確立されているようです。臨済禅の公案修行にも「チョッとした気づき」から「深い洞察」レベルへ導く公案がいくつも用意されていて、修行者を訓練するシステムを持っています。しかしながら、単純な日常レベルでの呼吸法や心や行動をありのままに見ていくベーシックなレベルでの工夫を普段から心がけなければ、どうしても頭での理屈に移行してしまいがちです。本当はそこが、白隠禅師が動中の工夫を強調された部分と言えます。そういう意味では、臨済禅でも公案だけではなく、もっともっと日常レベルでの「止観」の実習を取り入れる必要があると思っています。


≪坐中止観≫
第一に、坐中において止観を修すとは、四威儀のなかにおいてすなわち道を学ぶことを得れども、坐を最勝となすが故に、まず坐に約してもって止観を明かさん。
〔第一に、坐禅のなかにおいて止観を修習するとは、行住坐臥の日常生活のなかで仏道を実践するのであるが、坐禅のなかで止観を実践するのが最もすぐれているので、まず坐禅中の止観法を説くことにする〕

(1)「坐禅を始めた時、乱れやすい心をコントロールするために止観を修習する方法」
・・・坐禅中、初心のうちはどうしても心が粗く乱れてしまう。そこで、まず心を鼻の先や臍下の丹田に集中したり、落ち着きや安らぎなどをイメージする「止」を修することで粗く乱れた心をコントロールしていく。もし、「止」でダメな時には「観」を修し、その粗く乱れた心、あるいはそれに伴う呼吸や身体の変化をありのままに観察することで心をコントロールしていく。

(2)「心が沈んだり浮ついたりする病気を治すために止観を修習する方法」
・・・坐禅をしている時に、心が暗く閉じ塞がり、ボーっとしてうつ状態になることがある。あるいは、時として眠気が多いことがある。その時には、まず「観」によってそのような心をありのままに観察する、あるいはそれに伴う呼吸や身体の変化をありのままに観察する。もし、どうしても坐禅中に心が浮ついて落ち着かない時には「止」によって、鼻の先や臍下の丹田に集中して心を落ちつけていく。

(3)「臨機応変に止と観を使い分けて修習する方法」
・・・坐禅をしている時に、心が沈んでしまうのを治すために「観」を修習してもコントロールできないならば、その時は「止」を修習してみると良い。もし、「止」を修習して身心ともに安らかで落ち着き明るく浄らかになれば「止」がよかったということになる。また、心が浮つくのを治すために「止」を修習してもコントロールできないならばその時は「観」を修習してみると良い。もし、「観」を修習することで、身心が清らかで、落ち着くことを感じたならば「観」が良かったことになる。このように、「止」の効果がなければ「観」。また、「観」の効果がなければ「止」をというようにを臨機応変に試みるのがこの方法である。

(4)「禅定に入ったときに細かな心をコントロールするために止観を修習する方法」
・・・「止観」を用いて禅定に入ったならば、その禅定の心は微妙であるが故に、身体を意識しなくなり、心地よさを感じる。そうすると、悟りの境地を得たと錯覚してしまう。もし、禅定の心の状態も実体のないものと知るならばそれにとらわれることもなくなる。このなにものにもとらわれず、対象に集中している状態を「止」というのである。また、「止」を修しても、心に迷いが生じてとらわれる心が止まないならば、その時には「観」を修して、微妙な心を観察すべきである。禅定へのとらわれを自覚することで、禅定へのとらわれがなくなる。そうすると、悟ってもいないのに悟ったと錯覚する煩悩から離れることができるのである。

(5)「禅定と智慧のバランスを取るために止観を修習する方法」
・・・「止観」によって禅定に入った時、「止」が優位であるため智慧の働きが無かったり、弱い場合には悩みを解決したり煩悩を断ち切ることができないことがある。そのような時には、「観」を修習してありのままに実相を見る智慧の働きを多く発動することでバランスを取りそれらを解決することができる。また、「止観」によって智慧が発動しても、「観」が優位であるため禅定の働きが弱いことがある。そのような時には、智慧の働きで心はからりとしているけれども禅定が深まっていない。禅定が深まっていないから心が揺れ動いてしまう。『大智度論』には、「もし、禅定が深まっていなければ空・無相・無作などを知る智慧があったとしても、これは本当の智慧ではなく、間違った智慧といわざるをえない。」としている。この時は、「止」を修習すべきである。このように、禅定と智慧のバランスを取ることで、密室の中の灯りのように物をハッキリと照らしみることができるようになるのである。
 
要するに、「止」がダメなら「観」。「観」がダメなら「止」というように修習することが勧められているわけです。

≪歴縁対境止観≫
第二に、縁に歴り境に対して止観を修することを明かさば、端身常坐をすなわち入道の勝要となすも、しかも累あるの身は必ず事の縁に渉らん。もし縁に随い境に対してしかも止観を修習せざれば、これすなわち修心に間あり、結業が処に触れて起こらん。あに疾かに仏法と相応することを得んや。もし一切の時のなかにおいて、つねに定慧の方便を修さば、まさに知るべし、この人は必ずよく一切の仏法に通達せん。
〔第二に、行住坐臥などの日常生活のなかで止観を修習することを明らかにする。坐禅が入道のための最もすぐれた姿勢ではあるが、われわれは様々な人間関係や環境の中で生活している。もし、それらの様々なかかわりの中で止観を修習するのでなければ、どうしても心に隙間ができてすぐに煩悩が起こってくる。それでは、仏法の真髄を体得することはできないだろう。もし、あらゆる時に、いつでも禅定と智慧を体得していく「止観」を修習するならば必ず仏法の真髄を体得できるだろう。〕

いかんが名づけて縁に歴りて止観を修するや、いうところの縁とは、いわく六種の縁なり。一に行、二に住、三に坐、四に臥、五に作作、六に言語なり。いかんが境に対して止観を修すと名づくるや。いうところの境とは、いわく六塵の境なり。一に眼は色に対し、二に耳は声に対し、三に鼻は香に対し、四に舌は味に対し、五に身は触に対し、六に意は法に対す。
〔どのようなことを縁に歴りて止観を修するというのか。縁というのは次の六種類である。@行(行く)、A住(じっと止まる)、B坐(坐る)、C臥(横になる)、D作作(行為する)、E言語(話す)である。また、どのようなことを境に対して止観を修するというのであろうか。境とは、いわゆる六塵の境のことである。@眼は色(境)に対し、A耳は声(境)に対し、B鼻は香(境)に対し、C舌は味(境)に対し、D身は触(境)に対し、E意は法(境)に対するのである。〕

ここでも、「坐中止観」と同様に五つの方法を使い、「行・住・坐・臥・作作・言語」の「縁」、あるいは「色声香味触法」の「境」つまり「五感+意識の対象」に対して止観を修習し深めていくわけです。


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